聖人が流罪となったおりに木曽義仲の一家臣である堀徳兵衛光政が聖人に深く帰依し、覚円坊最信の名を賜った。
その後、聖人は雪深い越後をあとに関東へ旅立つが、最信は同行せず、この地に残って一宇を興し、覚円坊と称した。
天正3 年(1575)、教如上人より寺号を賜り、覚円坊を改めて光源寺と称するようになり、享保17 年(1732)真如上人の時代に光源寺は本山の抱地となった。
聖人が流罪赦免の際、自ら写したとされる「流罪勅免御満悦御真影」を安置し、大谷派本願寺高田別院の支院として国府影堂、または国府御坊と呼ばれてきた。その後、国府支院と光源寺を一つに併せて今日に至るが、一つの御堂の中に御影堂と本堂とを併設した様式は、配所の地ならではの全国的にも珍しいものとされている。
「親鸞聖人越後教化旅立の立像」「流人標札」「宣告状の写」「親鸞聖人と恵信尼公連座の名号」などの聖人ゆかりの宝物や蓮如上人書写の『浄土文類聚鈔』などを蔵している。境内には越後七不思議の一つである八ツ房の梅や上杉謙信と武田信玄の川中島合戦の発端となったといわれる信州坂城の城主村上義清の墓もある。また、流人標札前には聖人を偲んだ高浜虚子の「野菊にも配流のあとと偲ばるる」の句碑がある。
昔、聖人が小島(新潟県阿賀野市)に来たとき、ある家に泊まり念仏の教えを説いた。家人は、飯と梅干を聖人に差し上げ、聖人はありがたく食べた後、その梅干の種をその家の庭に植え、念仏のありがたさを説いた。すると不思議に芽が出て、花が咲き、実をつけた。この梅は、一つの花から八つの実を結ぶようになったという。そこに梅護寺という寺が建てられた。
光源寺の「八ツ房の梅」はその梅護寺の八ツ房の梅の根方から出た芽をもらい植えたものという。
〈『越後と親鸞・恵信尼の足跡』『親鸞を紀行する』参照〉