国府別院(浄土真宗本願寺派) 竹ヶ前草庵跡

国府別院

 恵信尼と結婚生活を営み、「愚禿(ぐとく)親鸞」と名のり、在家止住の凡夫が救われる道を身をもってきりひらいたのが国府の地である。この越後国府での7年間(42歳まで)は、生涯の中で最も苦労された時期といえる。聖人は建暦元年(1211)に流罪を赦免される。竹之内草庵の後に移られた草庵の地が竹ヶ前草庵であり、現在の国府別院の地である。

 建保2年(1214)に聖人が関東へ出立された際、聖人門侶の覚善はその後を守り、「親鸞配所御草庵安養道場」と称し、念仏を相続していたが、やがて信 州に移る。宝徳元年(1449)第8 代蓮如上人が聖人配所御旧跡参拝をされたころ「安養道場」は一端ここにもどるが、長尾為景の無碍光宗追放令により再び信州に難をさけた。後に、上杉謙信が禁をゆるめると再度ここにもどり、念仏の教えをひろめ、御旧跡を守った。しかし、江戸時代に松平家の高田城築城の際、高田に移転し、その後配所は愛宕権現別当宝持院の支配地となった。

 江戸時代に入ってからしばらくすると、聖人の御遺徳を偲ぶ気運が興って来た。本願寺でも旧跡復興を願われ、高田瑞泉寺・直江津勝蓮寺が石碑や石灯籠を寄進し旧跡復興の端緒をつくった。

 天明2年(1782) 瑞泉寺はじめ越後の門信徒の熱意と努力の結果、380坪を宝持院から借用することに成功し、文化2年(1805)聖人が袈裟を掛けられたと伝えられる「袈裟掛けの松」の聖地跡に現本堂が建立されたが、当時は借地だったことから寺号を称えることができず、ただ「小丸山」というだけだった。聖人の御遺徳を讃仰し、配所御旧跡を心のよりどころとして聖地の護持によせた先達の情熱が偲ばれる。

下陣天上恵心尼公御影

 明治4年(1871)小丸山の土地を買い求め本願寺の所有地となり、明治9年(1876)には本願寺直属寺院に指定され「小丸山別院」と公称。昭和5年(1930)に「本願寺国府別院」と改称して現在に至る。本堂の南にあった袈裟掛けの松は、聖人入滅後も永く樹齢を保ったがいのち尽き、残念ながら平成3年(1991)に伐採された。

特徴のある内陣の須弥檀

 当時の越後地方の寺院建築としては実に稀に見る壮麗なるもので、総欅造りの本堂は、内陣の様式なども土地が狭いことから出(で)内陣とし、余間は極端に小さい。内陣正面の同一須弥壇(しゅみだん)上、右側の宮殿(くうでん)に阿弥陀如来、左側の厨子(ずし)には聖人御真影が並んで安置されている。余間には配所御旧跡にふさわしく「恵信尼公御影」を安置している。