恵信尼公廟所(浄土真宗本願寺派) ゑしんの里記念館

ゑしんの里記念館

 聖人の妻恵信尼は、晩年を現在の新潟県上越市板倉区あたりで暮らし、この地で亡くなったと伝えられる。

 恵信尼は寿永元年(1182)生まれで、この地方の豪族三善為教の娘といわれている。「承元の法難」により越後に流罪になった9歳年上の聖人と結婚し、小黒女房、慈信坊善鸞、栗沢信蓮坊、益方入道、高野禅尼、覚信尼の男女6人の子供に恵まれた。この地で7年、関東に約20年、聖人の布教にも同行し、長く行動を共にした。その後、京都で暮らし70歳を過ぎて越後に帰り、板倉の地で子や孫と過ごし87歳の生涯を閉じたといわれている。

ゑしんの里記念館 大正10年(1921)西本願寺の蔵から、『恵信尼消息』と称される恵信尼の書状10通が発見された。これは晩年の建長8年(1256)から文永5年(1268)までの12 年間に、京都に住む末娘の覚信尼に宛てたもので、鎌倉時代の女性のまとまった書状としては稀なものであり、恵信尼や聖人の生涯を知る歴史的な資料として貴重なものとなっている。この『恵信尼消息』からも、恵信尼は知識と教養のある優しい女性だったことがうかがえる。

 恵信尼公廟所には、恵信尼の墓といわれる五輪の塔がまつられている。昭和31年(1956)板倉町米増の水田の中に「比丘尼墓」と呼び伝えられる五重の五輪塔が発見され、『恵信尼消息』第8通「五重に候う塔」とある恵信尼の墓と考えられ、昭和38年(1963)に「本願寺国分別院」の飛地境内として整備された。それ以来恵信尼顕彰の地として多くの人に親しまれ、その後平成17 年(2005)、ゑしんの里記念館の建設に合わせ廟所も一新された。 『恵信尼消息』第9 通の終わりに「とひたのまきより」とある地がこの地であろうとされている。

ゑしんの里記念館3 隣接する記念館は、恵信尼にちなんで「暖かい優しさ」と「芯の強さ」をまちづくりに生かした施設として建設され、平成17年(2005)8月にオープンした。

 施設内の「ゑしんミュージアム」には、「恵信尼像」(龍谷大学大宮図書館蔵)、「恵信尼伝絵」(藤野正観筆)、『恵信尼消息』(西本願寺蔵)など様々な資料が展示されている。また映像展示室があり越後の恵信尼・聖人の旧跡を紹介する映像などが放映されている。

 他には観光情報コーナー、特産品販売コーナー、多目的ホール、和室、食堂などがあり、郷土の物品も展示されている。

ゑしんの里記念館HP参照〉