8.承元の法難

 仏道に己を捧げつつも、進むべき道に迷い苦悩の日々を送っていた若き親鸞聖人は、法然上人と出会い、念仏者としての道を歩み始めます。
 しかし、それは新たなる苦難の道でもありました。

 旧仏教界からの念仏者への糾弾が日に日に強まる中、事件は起こります。
 それは後鳥羽上皇のお気に入りの女官二人が念仏に帰依し、上皇に断りもなく、法然上人の弟子、住蓮(じゅうれん)と安楽(あんらく)のもとに出家した、という出来事でした。このことは後鳥羽上皇のすさまじい怒りを買いました。

 いつの世も、人間が自己の尊厳に目覚めていくことを権力者は苦々しく思うものです。この事件は、権力者に弾圧のきっかけを与えてしまいました。専修念仏への訴えを仏教界のことと態度を保留していた朝廷も、とうとう専修念仏の禁止、ならびに関係者への厳罰を下します。承元の法難です。

 住蓮・安楽を含む4人が死罪。法然上人は土佐、親鸞聖人は越後、他6人が流罪に処せられました。

 いよいよ法然上人が都を離れる日、残る者たちへ最後の説法をする姿がありました。

法然 「嘆くでない。念仏の教えを他の地に広めに行くと思えば本望じゃ。南無阿弥陀仏」
西阿 「お上人さま、このような時に念仏はお止めください」
法然 「何を申す。私はたとえ首を切られようと、念仏を止めることなどできぬ。各々方、念仏を、念仏を忘れるなよ」

 僧侶の資格を剥奪して都から追い払い、専修念仏の教えを無きものにしようとするこの法難に対し、親鸞聖人は、次のような言葉を残しています。

主上臣下、法に背き義に違し、忿(いかり)を成し怨を結ぶ(天皇ならび臣下、ともに真実の教えにそむき、道理にさからって、怒りを生じ、怨みをいだくに至った)

(『教行信証』聖典p398

 権力者の横暴に対し、親鸞聖人は悔しさに身を焦がします。

 しかし、法然上人の別れ際の言葉を胸に、親鸞聖人は志を新たにされたのでした。

われ配所(はいしょ)におもむかずんば、何によってか辺鄙(へんぴ)の群類(ぐんるい)を化せん。これなお師教の恩致なり。(このように流罪の地へ向かう縁がなければ、京より遠く離れた人びとに念仏を伝える機会もなかったことだろう。これもみな師匠である法然上人のご恩というものだ)

(『御伝鈔』聖典p725

 親鸞聖人は念仏布教を我が使命として、まだ見ぬ地・越後の国府(こくぶ)におもむかれたのです。聖人35歳のときでした。

 この流罪を機に、親鸞聖人は、

僧に非ず、俗に非ず
(『教行信証』聖典p398

と、在野の仏教者を明言されます。それは、仏教者であるかないかは権力者の認める資格で決まることではないという意思表示でした。

 そして「愚禿(ぐとく)釋親鸞」と自ら名乗られます。愚禿とは、戒を保たぬ愚かな存在という意味ですが、決して卑下ではありません。己の内の悪に目を逸らさず生きる宣言です。そして天親(てんじん)菩薩と曇鸞(どんらん)大師より一字ずついただき、名を親鸞とされました。

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