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1.誕生・出家得度

 日本史の教科書にも、仏教の変革を行った鎌倉仏教のひとつとしてあげられる浄土真宗。その浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は全ての人びとが等しく救われる本願念仏のみ教えを生きた方です。

 親鸞聖人は平安時代の末期、承安3年・西暦1173年に、下級貴族の子として、京の都の南、宇治にほど近い日野の地に誕生されました。

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 親鸞聖人誕生の頃、都では平氏一門が栄華を極めていました。しかし、その平氏も間もなく滅ぼされ、かわって源氏一門が武家政治への道を開き始めます。
 武士たちは、残酷な殺戮を繰り返し、力こそ全てとばかりに貴族の地位をおびや脅かし、寺院すらも焼き払いました。それはまさに、人びとに尊ばれてきたものが権威を失い、考え方が根底から覆されていく動乱の時代でした。
 そのうえ、地震や大火などが相継ぎ、さらに飢饉や疫病のために死者が都にあふれ、その死臭が人びとの不安をいっそう深いものにしていったのです。
 苦しみ、悲しみにうちひしがれながら、それを訴える言葉も、場所もない人びとの姿を、親鸞聖人は幼い眼に焼きつけて育たれました。

 親鸞聖人ご本人も、早くに両親と別れ、寂しくつらい幼少の日々を送られています。生きる術において子どもにはどうしようもない事情があったことでしょう。その中で、み仏の道は、悲しみを乗り越え、生きる意味を尋ねていく唯一の道でした。

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 出家を志した幼き親鸞聖人は、9歳の春、伯父に伴われ青蓮院(しょうれんいん)の慈鎮和尚(じちんかしょう)を訪ねます。

慈円 「そなたの願いはよう分かった。されど、今夜はもう遅い故、また出直してまいられよ。そもそも、そなたはまだ幼い。そう急ぐこともなかろう」

親鸞 「いえ、私はもはや帰るところのないものと覚悟してまいりました」

親鸞 『明日ありと 思うふ心の 仇桜 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは』(無常の世にあって明日の命はわかりません。まこと真を求める道を、次の機会にと後回しになどできますでしょうか)

慈円 「うむ。まこと、そなたの申す通りじゃ」

 そううなずいた慈鎮和尚によって、親鸞聖人はその日のうちに得度(とくど)を許されたのでした。

教化委員会視聴覚部制作DVD『親鸞聖人の生涯』より

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