9歳から29歳までの青年時代を、親鸞聖人は比叡の山に生きられます。
伝教大師最澄によって開かれた比叡山は、日本仏教の根本道場でしたが、親鸞聖人が学ばれた頃には、現世の祈祷によって権力と結びつき世俗にまみれ、また一方では現実の生活とは無関係な学問の場になりはてていました。
もちろん、堕落した寺院をよそにひたすら修行に励む僧たちがいなかったわけではありません。親鸞聖人もその一人でした。
いずれに生死(しょうじ)の迷いを離れる道が開かれるのかという問いを、つきつめ続けた日々でした。
しかし、自分自身のありさまを問えば問うほど苦悶は増すばかり。悟りを求める情熱と同時に、その願いをかき乱す煩悩に身も心も振り回され、どうしようもありません。
親鸞 「あぁ、母上。この地でこそ道は開けるものと、修行に打ち込み、早20年が経ちました。なのにわが身は、悟りとはほど遠く、このように情けない有り様。」
自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず 常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべし
(『正像末和讃』聖典p501)
親鸞「どれほど努力を重ねても、愚かな私は欲望に負け、生死出ずべき道に徹することが出来ません。衆生を救うどころか、自分さえ救えぬ私はどうすればよいのでしょう」