9月7日(火)、長谷正當氏を迎えて「親鸞講座」が行われました。教区内の3会場(難波別院、奈良、兵庫)で7回にわたって開催される「親鸞講座」もこれで5回目。会場となった難波別院同朋会館講堂は坐りきれないほどの盛況で、回を追うごとにたくさんの人々が聞法に訪れてくださっています。
この記事では、この「親鸞講座」でお配りいただいた講義のレジュメを、アップいたします。記事下部の「この投稿の続きを読む」というリンクをクリックしていただければ、ご覧になれます。
なお、次回の親鸞講座は9月18日。会場を三田市総合文化ホールに移し、「人はなぜ悩むのか」と題し川村妙慶氏にお話しいただきます。こちらもぜひご参加いただきますようお願い申し上げます。
??親鸞講座(難波別院)レジュメ??
「自己とは何ぞや」という問いをめぐって
?清沢満之の自己への問いと親鸞の機の深信
1)「自己」への問い
「宗教的信」と「自己とは何ぞや」という問いとの繋がり
哲学と宗教の中心の問題?自己への問い
ソクラテス;「汝自身を知れ」。釈尊;「法灯明、自灯明(法を依り処とし、また自分自身を拠り処として、他人に依ってはならない)」
禅;「己自究明」。真宗;「機の深信」
「機の深信」と「自己への問い」
善導の「機の深信」;「決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず」。(聖全1p534)
親鸞の「機の深信」;親鸞は、『愚禿鈔』において、善導の規定を読み替える。
「決定して・・・自身を深信す、すなわちこれ自利の信心なり」(聖典p440)
「機の深信」を「自身を深信すること」と捉え直した。「自身は」から「自身を」への読替が意味すること。
親鸞の「自身を深信する」という言葉と、釈尊の「自分自身を依り処として、他人に依ってはならない」という言葉とが示す深い繋がりを、清沢の「自己とは何ぞや」という問いを介して明らかにすることが、ここでの中心のテーマ。
2)清沢の問い
清沢は36歳のとき、『臘扇記』において、「自己とは何ぞや、是れ人世の一大事なり」と問い、「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾に現前の境遇に落在せるもの、すなわちこれなり」と書いた。清沢の生涯にわたる思索の全体を結晶化した言葉。
宗教の根幹をなす二つの事柄が語られている。
- 自己は宿業的存在である。自己は世界にただ一つポツンと孤立してあるのではなく、大地において一切の諸事物と繋がり、人間、動物、植物、山河、日月星辰との関わりにおいてある。一切のものが大地において繋がり、共感し、感応しつつ生きているところに本能的世界があり、その繋がりの全体が宿業としての自己である。しかし、宿業の世界は、本質的には「感応道交する世界」であっても、現実的には差別を含むので「業繋の世界」であって、通常それを自己と見なすことはできない。
- それゆえ、宿業的世界を自己と認めてこれを担うには、宿業の世界が「絶対無限の妙用」に運ばれているのを感得することで、差別を通過して平等の世界が垣間見られるのでなければならない。「自己とは何ぞや」が人世の一大事である所以。
「人間とは、直立して、我(われ)という存在者である」(上田閑照) 立ち上がって「我」ということで、我を自己と捉え、万物のうちに自己を見る目を失う。
3)清沢の自己と現代フランスの自己の哲学(リクール、レヴィナス)
「主伴互具」としての自己。「伴」に支えられたものとしての「主」(清沢)。
「主格」(私は、I、Je)としての自己と、「対格」(私を、myself、me、soi)としての自己(リクール、レヴィナス)。
「私は東京にいる」。I find myself in Tokyo.? Je me trouve?à Tokyo.
「私は」(I、Je)は主格としての自己
「私を」(myself、me)は対格としての自己。
自己を主格ではなく、対格において捉える。そこで見えてくる「自己」(soi)を明らかにすることがリクール、レヴィナスの課題。
「主格の自己」は動作の主体として、事物や事柄を超過しており、それらに縛られない。「対格の自己」は動作と結び付いて、状況やものや人との関わりの中に置かれて、それらと結び付いて貫通一体している。(宿業的存在)。
清沢は「自己とは・・・現前の境遇に落在せるもの、すなわちこれなり」としたが、これは「対格の自己」である。
レヴィナスの、呼びかけられて「私はここにおります(me-voici,present!)」と応える自己も「対格の自己」である。
西欧近世の哲学は自己を「主格」(私は、I、Je)の方向に捉えてきた。しかし、自己を「対格」(私を、myself、me、soi)の方向に捉えようとしたのが、清沢の「自己とは何ぞや」、西田幾多郎の「場所の論理」、そして、現代フランスの「自己の哲学」(リクール、レヴィナス)である。
主格の自己は、「我は」と言うが、空虚で無内容。
対格の自己は、他者に呼びかけられて「はい」(me-voici,present)と答える。それは自己の起点を他者にもつ。他者との交流に開かれており、生きた、傷つきやすいコギト。対格の自己は、無名であり、英雄豪傑も匹夫匹婦も変わりなく、平等である。
如来が「十方衆生」と呼びかけるのは、主格の自己に対してではなく、対格の自己に対してである。対格の自己は、人間における、人格を超えた非人間的部分、無私で直接的な部分。
4)「仏教とは何か」。主格の釈尊と対格の釈尊(応用問題)
仏教とは「釈尊が」説いた教えか、「釈尊を」説いた教えか。
仏教は「釈尊が(主格の釈尊)説いた教え」であるという規定に立つとき、仏教学の内容は貧弱なものとなる。近代仏教学の問題点。
仏教は「釈尊を(対格)説いた教え」とすることで、仏教学は豊かな内容をもつものとなる。「対格の釈尊(釈尊を)」とは、釈尊の「正覚」であり、「正覚の自証の歴史」である。大乗仏教は「対格の釈尊」を説いたものである。
仏教は「釈尊が説いたもの」という規定ではなく、「釈尊が、釈尊を説いたもの」という規定に変えなければならない。
曽我量深;「仏教は釈尊が(主格)説いたものであるとするところの仏教学は、仏教滅亡の歴史を説明するところの仏教唯物史観である」(『選集』第5巻)。
正鵠を射た批判。仏教は「釈尊」を説いたもの、つまり、釈尊の正覚、仏になることを説いたものでなければならない。
5)主格の自己を主にした交流と対格の自己を主にした交流
氷山に譬えるならば、「主格の自己」は水上に現れた部分であるのに対して、「対格の自己」は水中に隠れた部分。
主格を主にした交流?お喋りの世界。エゴのぶつかり合い。眼差しによる相互抹殺の世界。
対格を主にした交流?以心伝心の世界。共感の世界。感応道交の世界。
小津安二郎や高倉健の世界。対格の部分での応答。応答?責任?自覚?自己。
6)自己を信じるということ?「機の深信」とは自身を信じることである?
善導は「機の深信」を「決定して、自身はこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁なきを深信す」とした。一方、親鸞は「機の深信」を『愚禿鈔』において「決定して、自身を深信す、すなわち、これ自利の信心なり」と読み代えた。
曽我の解釈?親鸞は「機の深信」とは「自身を信じること」であると捉えた。
「私共は、自身はと読むのですが、これを自身をと読むべきなのでしょう。自身を何と信じるか。「現にこれ罪悪生死の凡夫であり、曠劫より已来、常に没し、常に流転して出離の縁なし」と自身を信じる。だから、自身はと読んでいるけれども、このはををに直して読む必用がある。さらに言えば、「自身は」とは「自身をば」でしょう。決定して深く自身をば、・・・と信じる」こういうことであります。・・・他力を信じることによって自身を信じる。だから、私共は、まず自力を捨てて他力を頼むのであるけれども、しかし、その自力を棄てて信じるのは、自分を信じるのである」(選集第8巻、p197)
機の深信?自身を(対格の自己)信じること。自信?劣等感から救われること。人間社会で人を苛む最大の「邪見」は「劣等感」(憍慢?優越感)である。「劣等感を持っているということから救われるのが機の深信の本当の意味ではないかと思う」(曽我)。
夏目漱石;「ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人はいかなる意味からみても悪いということを行ったにせよ、その人は描いたという功徳によってまさに成仏することができる。私はたしかにそう信じている」(講演「模倣と独立」の言葉)。他人に依ることを超えたところに立つ。
善導の『往生礼讃』における「自信教人信」という言葉の意味 一般には「自らが信じ、人を教えて信ぜしむ」と読まれている。しかし、ここでの「自信」は「自らが信じる」ではなく、「自らを信じる」でなければならないと曽我はいう。
「自己を信じるということは・・・無条件に自分を信じるのである。・・・このいかんともし難い罪悪生死の凡夫だというところに安住したのである。・・・自分に何の値打ちもないということになると、われわれは自暴自棄になるが、自分に何の取り柄もないところに立つものは自暴自棄しようがない。本当の取り柄がないということによって、いよいよそこに何か不動のものを有しているのである。そこに何か動かない自分の安住の場所がある」(選集第12巻、p13)
「だから、私どもは自分を絶対に信じる。どんなに我が身が罪悪愚痴の存在であっても、自身に対する信念を失わない。いよいよ罪悪深重であればあるほど、むしろ自身が明らかになるわけである。・・・だから、本当に我が身を信じる信心というものが、それがまた他人を自信せしめる。これが自信教人信ということです」(同、p18)
親鸞の語った言葉「自信教人信、難中転更難」の意味。自分が如来の本願を信じることが難しいというのではなく、どうしようもない中にあって「自分自身を信じる」こと、そこに何か「不動の立場」があると感得することが難しいということ。
深く思いを致すべきもう一つの真理。われわれが真に自己を肯定し、信じうるのは、他者によって肯定され、承認されているという確信をもつことによってである。子供は親に無条件で肯定されているのを感得することで、自己を肯定し、自己を信じることができる。「自信」の根底にはたらくものとしての「回向心」。「自信」と「還相回向」との関わり。
長谷正當(はせ・しょうとう)氏略歴
1937年富山県生まれ。1965年京都大学大学院文学研究科博士課程修了(宗教学専攻)。文学博士。
京都大学名誉教授・前大谷大学教授。
主な著書に『欲望の哲学?浄土教世界の思索』、『心に映る無限?空のイマジネーション化』(共に法蔵館)、『思想史の巨人たち』(共著、北樹出版)、『象徴と想像力』(創文社)、『現代宗教思想を学ぶ人のために』(共編、世界思想社)、『宗教の根源性と現代』(共編、晃洋出版)ほか。